
1938年、岡山県の集落で起きた大量殺人事件「津山三十人殺し」。1時間半の間に約30人もの村人を次々に殺害するというあまりに凄惨(せいさん)な事件を起こした犯人の心を追い詰めていたものは何だったのか。当時の村人たちとの人間関係をひもとき、事件の真相に迫る。※本稿は、石川 清『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)の一部を抜粋・編集したものです。
女たちに裏切られ、
姉も嫁いでしまった
睦雄が自らの人生に絶望し、村人を殺戮(さつりく)しようという狂気に支配されるに至った直接的なきっかけは、昭和10年(1935)春に貝尾の集落に突如流れ広まった睦雄のロウガイスジ(編集部注/労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと。睦雄は祖父、父母を結核で相次いで亡くしていた)の噂だった。
その噂は「睦雄の両親がふたりとも結核で死んだ。睦雄の家はロウガイスジという恐ろしい呪われた家筋だった」というもので、睦雄が2度目の肋膜炎を再発させる直前の時期に広まった噂だった。
この噂を流したのは誰だったのか??以前から睦雄と深い関係にあり、昭和10年の春に睦雄が大きな恥辱を受けたと遺書で訴えた西川トメこそが、噂の出所だった可能性が高いと私は考えている。
睦雄自身が西川トメに対して自身のロウガイスジについて話した。話自体は、その直前に睦雄名義の倉見(編集部注/睦雄の生誕地。5歳頃に家族で貝尾に転居)の屋敷を売り払う交渉の際に睦雄が倉見で聞き及んだ。
以後、それまで睦雄をかわいがってくれたり、夜這いの相手してくれた西川トメや寺井マツ子といった村の女性たち(編集部注/結核に罹患する以前、睦雄は女性たちにかなりモテていた)はいっせいに態度を翻し、睦雄を笑い者にして貶め、さらに侮辱した。
金銭との引き換えがなければ、睦雄と関係を持とうする女性もいなくなった。